「魔法少女イナバ」という読み切り漫画が12月20日に投稿され、Twitterではそこそこ大きな反響がありました。
この記事では「生きづらさ」を中心にこの作品の解釈を書きます。
…といっても、そんなに難しい話ではなく、私が思ったことをまとめただけなので、多くの人に見てもらえると嬉しいです。
↓以下のリンクから漫画を読めます。
魔法少女イナバ / 魔法少女イナバ - 漫画:猫にゃん | コミックグロウル |無料で読めるWEBマンガ!
結論のまとめ
・この作品は「子どもの時に思い描いたように、誰かの、あるいは社会の助けになって生きたい。しかし上手く生きられない」という生きづらさを描いた作品だ。
・本物の魔法少女は子どもを助ける時には変身しない。でも、彼女はそのときすら「変身しなければいけない」。この描写に、彼女の願いや気持ちと実際の社会との交わらなさが描かれている。
次からの項目では、これらについて詳しく話します。
なお、今回は、具体的な作品との類似性などについては基本的に取り上げません。魔法少女ってそもそも元からオマージュとアンチテーゼにあふれた歴史だし…というのもありますが、単純に私が、あの作品を見てないので。
あと、タイトル(名前)が「イナバ」っていうのにも意味があるかもしれませんが、まあ、そこら辺はもっとそういうのに詳しい人に任せます。
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子どものときの憧れと、現実で生きることの乖離
まず、最初の項目についてです。
これは単に、現実はアニメと違って大変だ、とか、そんな単純に言える話ではないです。(一言で言えばそうと言えなくもないけど…)
彼女は小さい頃にアニメを見て、自分も『光でありたい』と願ってそのまま大人になりました。
光とは何かは直接は描かれませんが、アニメの主人公が『誰にでも好かれる明るい女の子』であったことを考えると、このアニメでは悪者を倒すだけでなく、主人公が多くの仲間や人々と関わりながら生きるさまも描かれ、それが暗い環境で育った彼女に、明るい社会での生き方への憧れを与えたのだと私は思います。
でも実際には、彼女には「明るく社会で生きる」ということは叶いません。その理由は、コンビニでの『子どもじゃないんだから!』という台詞に詰まっていると思います。
確かに作中で描かれるように、この世界には怪人はいないし、悪がいてもそれと単純に正面から戦って打ち倒したり、打ち勝ったりすることは無いでしょう。
でも、それ以外にも、子どもの頃に想像した社会とその実際の違いはとても大きく、彼女はそのあらゆる部分に困難を抱えているのではないかと思いました。
というか、私はいつもそういったものに苦労しています。ここからは、直接作品に描かれていることではないですが…
頑張って誰かを助けたら、助けた人が喜んでくれる。仲間が増える。みんなが幸せに暮らせる。
落ち込んだら、手を差し伸べてくれる人がいる。あたたかさを感じられる人がそばにいる。
色々な考えや個性をもった人がいても、お互いを認めながら生活できる。
そういったことが当たり前にあることを望むことは、みんなに共通するものだと思って生きてきたはずなのに、何故だかそれを第一に考えていると子どもっぽく思われるし、あからさまにそれに反しようとする人も普通に生活している。
世の中の人はその理想と実際の差の影響を受けないように、色々な常識を作っているのかもしれませんが、そのようなものにも馴染めず、結局、憧れたはずの社会から離れてしまう、これが私から見た「子どものときの憧れと、現実で生きることの乖離」です。
(「生きづらさ」の話題でよく言われる、「社会が嫌いである」というのとは少し違うことに注意してください。)
「子どもを助ける時すら変身する」という辛さ
まず前提として、本物の魔法少女は、人助けをするだけのためには変身しないのが一般的です。
まあ、作中のアニメでは変身してお年寄りを助けているようですが、まあ、たまたまか、おんぶする体力がいるから変身してたということにしときましょう。この記事ではそういうことにします。
コンビニで子どもを助ける時にまで『変身』した理由は具体的には描かれていませんが、私は、「素顔の自分のままでは人を助けたりできない」あるいは「人助けができるのは自分ではなく『イナバ』である」という気持ちがあったのだと思います。
これは先ほど述べたように、彼女が「明るく社会で暮らす」という状態を普段から全く実現できていないという現状や、それによって自己肯定感がとても低いことから来るものだと思います。
これは、とても悲しいことに感じました。
だって、魔法少女ものは、一貫して「誰もが優しく強い気持ちを持つことでヒーローになれる、輝ける」ことを表現している作品なはずですから。
様々な要因があると思いますが、結果的にそのテーマの真逆の状態を体現してしまっている彼女を見るのはかなり辛いものがありました。
(泣いている子どもを見て過去の自分を思い出すのに、変身しないとそれを助けられないと認識しているのは、言葉にしがたい辛さを感じます。)
まとめと、少し余談
この物語では、最終的には人間兵器というある種の「本物の怪人」が現れ、彼女はそれを打ち倒しました。
それは『人間の敵は人間だから魔法少女の居場所は無い』という作中の文の逆であり、彼女に居場所、役割ができた場面だったのでしょう。
(そういう意味では、クマ人間は無から現れてはいるけど決して無から現れた存在ではないと思います。)
とはいえ、彼女がどれくらいの救いをそれで得ることができたのか、今後はどうなのか、ということは曖昧な形で作品は終わっています。
本当に、読み切りの最初から最後まで、子どものころの憧れと、現実との乖離、それによる生きづらさを描き貫いた作品だったと思います。
自分の話も多くなってしまいましたが、この記事が何かの参考になったり面白いと思った人がいたら嬉しいです。
ここからは余談ですが、この作品の作者の猫にゃん先生は、まんがタイムきららのファンとして知られており、また現在では実際に同雑誌で作品を連載している方です。
きららというと、よくある、ほのぼのとした女の子のゆるやかな日常を描いた作品が多いというイメージをもつ方もいると思いますが、実際には、(少なくとも多くの人が想像するよりは)そのような作品は少なくなっています。
「日常」というテーマは不変のものとして残っていますが、近年では、「みんなが理想とするような日常」と現実との差や、「ふつうの日常」を営もうとする上での難しいところ、といったものが全体、または作品の一部分のテーマになっている作品が多く見られます。
(※ここに書いたのは一例で、それ以外にも、日常というテーマを多種多様な形で従来より大きく捉えた作品が見られます。)
つまり、今回の作品は、そういったきらら作品に多く見られるテーマ(の1つ)をかなり上手く、他社の読み切りという形にまとめているものだと思います。
(※表現としては、いくら一般のイメージとは違うとはいえ、きららにクマと合体した人間兵器は流石に出ないですけどね…。(多分。人間兵器だけだと何とも言い難いライン))
私は、これはかなり嬉しいことだと思います。
というのも、やっぱり、今回の作品みたいなテーマってあんまり、きらら作品以外で見る機会が多くないし、何より、社会的にもあんまり認識されてないことだと思うんですよね。
(※単に「生きづらさ」ではなく、「思い描いたものと実際の差による生きづらさ」というテーマ。)
それをこのような機会に広めてくださった猫にゃん先生に感謝したいです。ありがとうございました。