メニューへ

「ゼルダの伝説 夢をみる島」のストーリーの解釈の雑書き(ネタバレ注意)

 この記事ではリメイク版を基準に話を進めますが、基本的な内容は原作と同じです。

いつもの記事と異なり、思いついたことを書いていった記事なのでですます調じゃないです。

 

この記事は、URLもしくはサイト名を明記して頂ければ、自由に内容の掲載、収入があるまとめサイト・検索サイト等へのリンクの掲載、及び、その他の著作権法上の「引用」と認められる範囲の利用が可能です。あらゆる許可は必要ありません。ただし筆者は一切の責任を負いません。具体的な条件はこちら(外部サイト)

前提と前置き

先日「ゼルダの伝説 夢をみる島」をクリアした。オチは全部知ってたのにめちゃくちゃ泣いてしまった。

ストーリーの言いたい事的には最後のテキストが全てなゲームだけど、やっぱり、きちんとこのゲームを体験して、この島にいるのが楽しい、ゲームを進めるのが面白い、と思えた上でエンディングを自分で体験しないと泣くことはできなかったなと思う。やっぱりゲーム体験というものが自分は大好きだなと改めて感じるゲームだった。

 

 

まず、前提としてこのゲームのストーリー、というか、このゲームにおける「夢の世界に行く」ということは、「(このゲームに限らず、あらゆる)ゲームをプレイする」という事全体の話だと思っている。

いや、別にメタファーだということを強く認識する必要性があるわけではないけど、ただ、「コホリント島の思い出(=このゲームを今までプレイしたときの思い出)はエンディングを迎えてもずっと残るよね」、というストーリーは別にこのゲーム以外にも通用するよね、ということは、他のRPGゼルダの伝説シリーズをいくつかプレイしたことがある人なら、多くの人が納得できるんじゃないかと思う。

このことについては、既に他の方が、元々はリメイク前に書いた文章(下記)でも指摘されているので興味がある人は読んで欲しい。

note.com

「南の神殿」の石板について

その解釈で行くと、やっぱり南の神殿に「ツクリモノ」って書いてあるのがかなり直接的で凄い表現だよなと思った。

いくら作り物であっても、作り物だと分かっていたとしても、作り物の世界で得た思い出は実在するのだ。そんな風に自分はこのゲームを解釈している。

ゲームって、遊ぶときは当然作り物だと思ってお店で買って遊ぶわけだから、それについてのゲームなのではないかという事だ。

 

このような考え方が30年前に出ていることは凄いことだけど、それがさらに、他でもないゲームの王者たる任天堂から出ていて、しかも小泉歓晃さん脚本なのが良いよなと思う。(原作のスタッフロールや、社長が訊く大地の汽笛参照。小泉さんは、スーパーマリオオデッセイのプロデューサーだったり、ニンダイに時々出ていたり、今でも現役で様々な面において任天堂を支えている方である。)

 

話は戻って、南の神殿の石板を見た後に、リンクの台詞(心の声)として「?? 作りもの……?」というテキストが出る。

これも何とも言い難いものだけど、個人的には「リンクはプレイヤーと完全に同じ存在ではなく、ゲーム上のキャラクターであるのでこの世界が夢、作り物であることをよく認識できない」という事だと思っている。

まあ、この石板を初めて読んだ時に意味があまりよく分からなかった人はこれと同じような反応だったと思うし、それはそれで良いと思うんだけど、個人的にはそういう解釈ということで。

「押しつけがましい味付けをしない」というのがこのリメイクの(グラフィックデザインの)方針だったようなので(※)、この話題も、絶対これが正しいというものは無い。

(※)

BLOG | ゼルダの伝説ポータル | Nintendo


なお、「夢の中にいる人はそこが夢かうつつ(※現実のこと)であるかを認識することはできない」、という話は丁寧に、南の神殿を出た直後にフクロウが教えてくれる。

あと、魔物(ボス)達は「ここは夢の中なのでお前はセイレーンの楽器を使って目を覚まさせることはできない」みたいな事を言ってくるけど、それでもそれができたのは「(リンクではなく)プレイヤーがゲームを終わらせようとしたから」でもいいし、「リンクも外から来たから」でもいいと思う。

外から来た魔物たちは夢にいながらここが夢であることを自覚しているので、リンクも南の神殿では自覚してなくても最後には自覚したと考えても不自然ではないし、プレイヤーは自覚していたから、という解釈でもどっちでもいいと思う。

(追記:マリンがかぜのさかなの歌を歌ってもダメだったことを考えると、完全にこの世界のことをメタ的に認識してないとやはりダメなのかもしれない。)

フクロウ像のテキストについて

それから、ちょうど丁寧に南の神殿の近くに、このようなテキストがある。

「土になる」というのは、「一切世界に干渉をしない状態で世界に存在する(世界の一部になる)が、何も意志を持った行動ができなくなる」ということだと思う。

ゲームでプレイヤーが操作する主人公が主人公たる所以は「意志」による「行動」である、という話はundertaleというゲームをやったことがあれば分かると思うけど、ゲームをやめるとそれができなくなる、という事を表しているのではないだろうか。

コホリント島を消滅させないでおくには、「かぜのさかなを目覚めさせず、リンクが島から脱出しない」という選択肢しか残されておらず、それを実現させる方法は、プレイヤーには「ゲームをやめる」しか手段が無い。

でも、ゲームをやめることは、リンクの意志と行動が失われることを意味する…と、なんだか難しい概念的な話になってきたけど、伝わってるんだろうか。

 

まあこれは、このゲームの最後の(フクロウとかぜのさかなの)テキストや、南の神殿の石板に比べればおまけのようなものだと思ってるので、そんなに伝わらなくてもいいかもしれない。

夢のほこらについて

「夢のほこら」という場所はかなり面白い。

夢を覚ますための「オカリナ」が、自分が眠って夢の中に行かないと入手できないということはかなり興味深いことだと思う。

そこは結局、夢か現実か曖昧な場所である

聖なるタマゴを開けるという、ある意味夢と現実をつなぐような役割のアイテムがそんな場所にあるのは、面白いしよく考えられてると思った。

 

そういう意味では「夢のほこら」って、(ちょっとメタ的な立ち位置にいる)子どもとうさぎしか言及しないし、かなり重要な場所な気がするんだけど、リメイク版ではめちゃくちゃ質素な内装のデザインでちょっとシュールなくらいだった。

でも、具体的にテキストで言及されてるわけでもない情報をリメイク前から一切増やさない、という意味ではすごい誠実だったと思う。

 

エンディングについて

このゲームのエンディングはアニメーションである。(リメイクは手書きアニメ、GB版は一枚絵の紙芝居)

これまでずっと見てきた3Dモデルと大きく印象が異なるため、「現実に戻ってきた」という感覚を強く意識させられる。

(※オープニングもアニメであるため、現実世界の部分をアニメで表現して夢の世界を二等身のドット絵や3Dモデルで表現しているという解釈もできる。)

 

そこで流れるエンディングBGMは本当に最高だった。

夢島リメイクでは、多くの楽曲が、楽器の数を抑えた「室内楽」と呼ばれるような楽器の編成で演奏されている。それが最後にはフルオーケストラになって、ああ、現実に戻ってきたんだな、となるのは最高だった。

そして、フルオーケストラの曲の最後にGB音源が流れるのは、「残った思い出」の部分を表していると思う。

GB音源は、誰が聞いてもゲームの音だと分かるし、リメイク前の原作の音だということも分かる。

それは、「ゲーム(世界)の象徴」、「昔の思い出の象徴」だと自分は解釈した。

現実世界に戻っても、それがBGMに残っているというのはこのゲームにおける思い出と同じものを感じることができるアレンジであった。

 

そもそも「ゲームの思い出はゲームが終わっても無くならないよ」という趣旨のゲームが20年以上経ってリメイクされたという事実だけで感動なのに、これは本当にその趣旨に沿った、素晴らしいファンサービスといえるだろう。(自分は原作が発売した時生まれてなかったので、switch版が初めてのエンディングだったが…)

 

 

 

これでこの記事はおしまいです。また何か思いついたら書き足そうと思います。

※当ブログでは、ゲームのスクリーンショット等の著作物を使用する場合があります。それらの著作権は著作者に帰属します。
※当ブログを引用する際はURL又はサイト名を記載ください。ただし私は責任を負いません。