「まちカドまぞく」は、単行本1巻ごとにストーリーがキリの良いところで終わるような形になっていますが、皆さんはどの巻が好きですか?
勿論、どの巻もとても印象的なのですが僕は5巻のお話が一番好きです。
何故ならあまりにも「魔法」と「心」を題材とした話として真面目なので。
前提として、「まちカドまぞく」は魔法などの不思議な力が存在する、「非日常の中の日常」の中での、「心」「コミュニケーション(対話)」「人と人との関係性」などをテーマにして描いた作品なのではないか、という僕の解釈を、前回の記事で書きました。
(「まちカドまぞく」という作品全体を通しで見た僕の感想などを詳しく書いてあるので、まだ見てない方は是非こちらを先に見てください)
その中でも5巻の終盤は、特にそのテーマについて真剣に向き合い、かつ非常に分かりやすい形式で伝えた作品なのではないかと僕は考えています。
今回の記事ではそれについて語ります。
追記:この記事のYoutube版ができました。(ゆっくり解説)
こちらから視聴できます。
この記事には、「まちカドまぞく」五巻以降のネタバレが含まれます。
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(前置き)シャミ子の力の使い方についての検討
漫画での話の順番を辿って記事を書いてるので最初にこの章が来るのですが、内容的には余談に近い章なので、本題を見たい人は次の章から読んでください。
上記の、前回書いた記事ではシャミ子のやり方は認知行動療法の方法にも似ている、という話をちょっとしました。
あれに関しては、他にも、認知的アプローチと行動的アプローチを行っている!とか、裏で話したいことはそれなりにあるんですけど、ただまあ、余談に近いというか、作者さんがそれを意識したかどうか とかを予想したりする事にあまり意義は無く、「心」について真面目に考えてるからそれに行きついた、という話なので、今回はその用語は使わずに話をしたいと思います。(内容はおおよそ同じだけど)
(そもそもあれは皆に中々伝わりにくいと思うし…。もし本当に心理学に詳しい方がいればそういう人の意見はとても聞きたいです。)
…という訳で、5巻の終盤で問題を解決した後、シャミ子は自分が人の心を操って洗脳し、不自然な和解をもたらしたことや自身の力の強さなどに恐怖や不安を感じ、桃に訴えます。
でも、桃が言う通り、僕も、シャミ子が今回行った解決方法はとても正しく、自然なものの延長線上の範囲内だと思います。
それは、シャミ子は強制的(一方的)で人知を超えた力によって記憶を書き換えたり、何かの行動をするように仕向けたりした訳ではなく、自分の言葉を使って、客観的な出来事・状況に対する「別な考え方(捉え方)」を提案したからです。
紅さんに対しては、過去の記憶に寄り添って誤解を解いてもらう(偏った考え方と、それに付随する嫌な気分を変えてもらう)。
リコさんに対しては、新たなものの考え方と、そのための方法を提案することで納得してもらう。
それらは、まあ、要するに「普通に皆ができること」の延長線上だという事ですね。
ヨシュアさんは本当に記憶を改ざんすることもできたし、シャミ子も多少は相手に行動を直接刷り込むこともできるから、もしかしたらシャミ子がもっと力を得れば、そういう事も自在にできるようになるのかもしれないし、そうなるとちょっと人知を超えてるよなという話になりますが、今回はそういう手段は使わなかったですからね。
「共感」「共鳴」という言語センスの良さと真面目さについて
前の章では長ったらしく、シャミ子がやったことが正しかったのか改めて考えて、その理由を考えていましたが、まあ、知っての通り作品を見れば結論は書いてあるし、結局上に書いたことは全部作中で既に言われてるんですよね。
という事で、シャミ子の訴えに対して桃は何と言ったのか。
「つけこむ」…
寄り添って共感する力なんて誰でも持ってるんだよ
シャミ子は弱ってる人に共鳴する力がちょっと強いだけ
(p118)
いや、これはまあ全文引用しちゃうな……凄すぎるから……
全まちカドまぞくのコマでも一番好きかもしれないですね。
前回の記事の再放送になりますが、やっぱ、「説得」「気持ちを変えた」とかじゃなくて「共感」なのが本当にちゃんとしてて。
上の章で長ったらしく解説したことが「寄り添って共感する」という言葉に置き換えられることで、すごい普遍的な、人間の基本的な心の営み(コミュニケーション)の一つなんだよということがとても分かりやすく表されていると思います。
で、「共鳴」っていうのも凄く良い言語センスですよね。
「共感」よりもちょっと特別な力っぽいニュアンスだけど、特別なのは、魔族の力がどうというよりは、シャミ子の心の特性のことなんだということを表してるのかなと………ここら辺はまあ、人によって解釈が違う事にはなると思いますが、僕はそういう風に考えています。
うーん……やっぱり、分かりやすく凄さを言語化するのは難しいけど、ここはもう、言葉が分かりやすくてすごい!だけで良いですか?結局言いたいのはそれなので。
まちカドまぞくは元々、平易な言葉で非常に奥深いストーリーや細やかな心の動きを表現するのが特徴的ですが、特にこの部分は際立ってるなと思います。
魔法とは心の力~魔法作品文脈で見た時の凄さについて
(※)注
「まちカドまぞく」の作品内で「魔法」という言葉はほぼ「魔法少女」以外で登場せず、定義が明確ではありませんが、この記事では光/闇に関係無く一般的な常識を超えた不思議な力全般を「魔法」としています。
しかし、この場面の凄さの話はこれだけでは終わりません。どちらかというと、ここからの話が前回の記事ではふわっとしか触れられませんでした。
桃は、p118で
シャミ子の力はヤバいけど、使い方を間違ったらヤバいのはこの世全ての力
(要約)
という話もシャミ子に言います。
この台詞で言われている「シャミ子の力」は、先ほどとは少し異なり、どちらかというと夢魔としての特別な力というニュアンスに近いでしょう。
ここもまた前回の再放送になるのですが、
要するに、
「魔法って(思ったことは)なんでもできる、とても強い力だけど、だからこそ使い手の気持ち、意思が重要だよね。」
という話と、
それからもう一つ、
「でもそれって現実の強い力も同じだから、魔法がある世界でも無い世界でも言う程変わらないよね」
っていう話がここで示唆されていると思います。
二番目については、ここのシーンだけでは多少拡大した解釈だと感じるかもしれませんが、ただ、「まちカドまぞく」では結構色々なシーンで、魔法を単に夢のある"現実を拡張するもの"というだけではなく、それによって様々な苦労をしたり、その苦労を魔法以外の力も使って乗り越えたり(大きな出来事では4巻のミカンの呪いの解決など)………というのを十分描いてきてるので、それらを思い起こすとなんとなくそうじゃないかな、と僕は思います。
それで、ようやく本題なのですが、これが「人の心に共感する」という題材で語られてるのがとても凄いです。
極端に言うと、「魔法も、現実の強い力も結局似たようなものだよね」っていう話って、どうでしょう。
字面だけ見ると、とても夢の無いような話に感じられるかもしれません。
でも、それがこの話では「相手の心に寄り添うのは、(夢に潜るのは特別ではあるけど)皆ができることだよね」というようなニュアンスに上手く置き換えられてる訳です。
それによって、この話は魔法を題材にして、非日常の世界観を表現するという利点を最大限生かしながら、(たとえ非日常の状況であったとしても)「皆が心に寄り添える、それは正しく使えば多くの人を幸せにできる力だ」ということを肯定しているのです。
これは正しく、心とコミュニケーションへの賛歌と言えるのではないでしょうか。
そして何より、「魔法の影の部分(使い方を間違った時の危うさ)」を描くことで純粋にストーリーとしての面白さ、深みを増しつつ、このようなメッセージ性を平易な言葉で作品に与えているのがめちゃくちゃ素晴らしい事だと思います。
まとめ
・シャミ子が紅さんとリコさんに対して行った施策は健全で、自ら真剣に「相手の心」に向き合った結果。
・5巻の終盤のストーリーは、まず
-相手の気持ちを変える力に恐怖や不安を覚えるシャミ子の優しさや、それに対する桃の友情の強さ、魔法の力の使い方についての話を描き、物語をより面白く、説得力があるものにしている。
-その上で「共感」「共鳴」という言葉を用いて、「心に寄り添う」ことやその気持ちが強いことを穏やかに肯定している。
-更に「魔法って(思ったことは)なんでもできる、とても強い力だけど、だからこそ使い手の気持ち、意思が重要だよね。でもそれって現実の強い力も同じだから、魔法がある世界でも無い世界でも言う程変わらないよね。」という魔法文脈の話を上記の話を題材にやることによって、魔法というものの夢を残しながら(現実を良くする力であることを肯定しながら)より一層「皆が心に寄り添える、それは正しく使えば多くの人を幸せにできる力だ」ということを肯定している。
・「皆が」心に寄り添えるということは、文字通り皆への賛歌とも言えるかもしれない。
・ストーリーの面白さ、設定の奥深さを引き立てると同時にメッセージ性を与えているのはとても凄い。
関連記事
4巻の記事
その他の記事(今後増えるかも)
あとがき(余談)
今回書いた記事は……はっきり言って、別にわざわざブログに書かなくても、既に漫画のストーリーの中で説明されていて、多くの読者がストーリーとして(言語化することはできなくても)既に理解していることを長ったらしく文章化しただけです。
僕が過去に書いたまちカドまぞくの記事もそういう感じなので、それらを公開した際、複数の方にそのような事を指摘されたりはしました。
ただ、それでも僕は、個人的には「まちカドまぞく」が、単にファンタジー、友情物語のエンターテインメントとして素晴らしく面白い話だというだけでなく、こんな普遍的なテーマ(心、コミュニケーション…)に凄く真面目に取り組んで分かりやすく伝えている作品なんだ!!ということをどこかの誰かに伝えたくて、虚空に向かってこの記事を書いています。
(普通にファンタジーとして死ぬほど面白い!!!って話もめっちゃ言いたいのだけど、六巻のあいつに色々感情を上書きされたせいで今中々そっち方面の話を言葉にしにくい……)
n日後、n年後、10年後でも……この記事をふと見た誰かがそれに共感してくれるか……それは分かりませんが、ちょっとでもそういう事があれば良いなあと願っています。
(もしそういう人がいればコメントでも…
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